2013年6月



ーー−6/4−ーー 将棋電王戦


 
将棋の話だが、人間対コンピューターの対戦がある。電王戦という、五人のプロ棋士がコンピューターと戦う団体戦。今年の試合は、三勝一敗一分けで、コンピューターの勝ちとなった。将棋界にとっては、ショッキングな出来事だったようである。

 私は将棋に関しては門外漢だが、どうやら現在のコンピューターは、とても強いらしい。対戦したある棋士は「終始、勝てる気がしなかった」と言ったそうである。プロ棋士どうしの戦いなら、両者の段位に差があったとしても、拮抗するのが普通であり、形勢が二転三転しながら進むものらしい。ところがコンピューターは、初めから終わりまで一方的に有利だったという。「自分の側には、良い手は一つも無かった」と述べる棋士の言葉には、コンピューターの段違いの強さがうかがえた。

 近いうちに、プロ棋士のナンバーワンがコンピューターに負ける日が来るとの予想もあるらしい。そうなると、プロ棋士という職業の存続が危ぶまれると言う指摘もあるそうだ。私のような素人には、そんな事はないだろうと思える。人間対コンピューターの試合は、いわば学問的興味の領域であり、そんな事とは関係なく、人間どうしの将棋の世界は、これまで通り世の人々の支持を得られるのではないかと。

 ところが専門家の見方は、楽観的ではない。名人戦のような対局に際し、コンピュータがリアルタイムで分析し、次の一手を予測するようなことが行われれば、プロ棋士の権威は失墜する恐れがある。勝負は、予測できないところに面白さがあるのだが、コンピューターが絶対確実な予測を次から次へと繰り出せば、対局の興味は薄れ、対局の意味そのものも失われてしまう。賞金を生活の糧とするプロ棋士の、ストイックな存在感は、もはや維持できなくなるとの指摘である。

 ちょっと待てよ、と思う。チェスの世界ではどうだったか。世界チャンピオンのカスパロフ氏が、ディープブルーなるコンピューターに負けて、人間の敗北が確定したのはだいぶ前だ。しかし、チェスの人気が無くなったという話は聞こえてこない。プロ棋士が職を失うと言うのは、心配し過ぎなのではないか。

 ところが、チェスの世界には、日本の将棋や囲碁のようなプロは居ないそうである。つまり、生業としてチェスの試合をやっている人は、存在しないらしい。そう考えると、職業人としての将棋士の立場が、過去に例が無い苦境に立たされるという危惧も、あながちありえない事ではないような気もする。

 ところで、起死回生を試みる人間サイドが、どうしても真似できない部分が、コンピューターにはあるらしい。

 将棋、囲碁に限らず、スポーツの勝負でも同じことが言えるのだろうが、試合の勝敗を決める重要なポイントは、メンタルな部分だという。「負けるかも知れない」という不安や焦りが、冷静な判断を狂わせ、調子の乱れを招く。あるいは、不利な状況に陥ると、「もうだめだ」という失望感から、気力が続かなくなり、戦意が低下して、本来の力が出せなくなる。それでどんどん窮地に追い込まれていく。そういう自滅型の敗北パターンが、大きな割合を占めるらしい。

 それに引き替えコンピューターは負けた瞬間まで、負けるという事を考えない。たとえ不利な状況に陥っても、淡々として最善の手を繰り出してくる。そのタフさは、感情を持った人間には、とうてい真似できないものだそうである。





ーーー6/11−−− 梵字の額


 
知り合いから聞いた話である。東京のあるお菓子屋の店内に、一枚の額が掲げられていた。数十年前に、その店が最高裁判所の判事から譲り受けた代物だそうである。梵字で書かれた書に、日本語訳が付されている。

「仇も我が家に来りなば彼を歓び迎ふべし 樹木近づく樵夫にも陰を惜しまぬその如く」

 仇といえども、我が家を訪ねてきたら、喜んで迎え入れなさい。樵に伐られようとする樹が、陽差しに疲れた樵に葉陰を与えるように、という意味であろう。

 何故、菓子屋に梵字の額なのか、その理由は不明だが、聞いた経緯から想像すると、法律関係の世界では、一つの拠り所のように扱われてきた言葉なのかも知れない。

 ともあれ、たいへん大らかな情感を秘めた言葉である。奥深い思想を表現しているようにも感じられる。特に、後半の描写には心を打たれる。そのシーンが、目に見える様である。

 このように身を処したいものだと思う。しかし愚昧なる身には、難しい。仇が来たら、水をかけて追い返し、後に塩をまいておけ、ぐらいだろう。










ーーー6/18−−− 創作への意欲


 私の稼業は木工家具製作であるが、ほとんどが注文制作である。この地に同業者が何人かいるが、いずれも注文仕事をメインにしている。だいぶ前の話だが、あるグループ展で、出展者どうしが話をしている時に、一人の木工家の口からこんな言葉が出た。「注文が入るのは有り難いけれど、作らなきゃならないからね・・・」。その場に居合わせた木工家は、ほぼ全員がその発言に理解を示した。半ば冗談、あるいは自虐的なニヒリズムのようなものであろうが、そういう気持ちは分かる。私も「そうですね」と答えた。

 その発言の意味は、要するに作らなければ稼げないということだ。仕入れた物を売って稼ぐ仕事ではない。ゼロから作り上げるという行為を経なければ、収入を得る事ができないのである。だから、注文が入るという事は、収入を得る当てが付いたという意味では有り難いが、製作の苦労が発生するという意味では、悩ましい事でもあるのだ。

 こんな事を書くと、「好きな事をやっているのだから当然だ」、「苦労をしないで金を稼げる仕事などない」、「考えが甘い」などと非難が集中しそうである。そういう批判が好きなのが、世の人々である。「そうですか、たいへんですね」などと同情してくれる人は、親しい関係の人を除けば、まず1パーセントもいないだろう。木工家具製作の実際など全く知らなくても、一般化された批判は、躊躇なく口から出るものである。

 さて、この話題を取り上げたのは、世の人の無理解を嘆くためではない。現在の私は、「作らなきゃならない」という事を、さほど苦に感じなくなっている。その理由を探ってみたいのである。

 一つには、歳をとるとともに、辛さの感覚が鈍くなっているのかも知れない。若い頃だったら、面倒に思ったり、苦労を感じたりした事が、今では淡々と行えるようになった。加齢によって生じるそういう傾向は、たしかに有ると思う。若い人は、気がはやり、結果を急ぐ。そのため、イライラしてストレスを抱える。年齢を重ねた者は、慌てる必要も無く、結果を急ぐ事も無い。その時その瞬間をそのまま受け入れて満足する。山の上で、中高年登山者が黙々と歩く姿に、共通点のようなものを感じる。

 もう一つは、駆け出しの頃と比べて、仕事に対するプライドが確立されてきた事が考えられる。20年以上に渡り、オリジナルの製品を作り続け、お客様からそれなりの評価を頂いてきた。それが、他人には無い、私だけのかけがえのない仕事だと感じるようになってきた。そのようなプライドが身に付くと、作品作りに込める思いも変わってくる。現在は、自分の作品が出来上がっていく過程を、自分の目で見ることが、なんとも楽しく、愛おしい。そして、自分が創りあげてきた作風や、仕事のスタイルを、大切に保存し、持続させたいという気持ちを、強く抱くようになった。

 仕事を始めた当初は、全てがおっかなびっくりだった。他人の評価ばかりが気になった。ベテラン木工家から笑われるのではないかと心配した。それから20数年。今では、他の木工家が出来ない事もやる。作品の充実度が、他者とは違うと言ってくれる人も多い。私が工夫し、開発した加工方法に接し、驚きを隠さない同業者もいる。その一方、社会に向けては、ホームページやブログで発信を続けている。市民大学講座で講演をしたこともある。著書も出した。もう自分を小さく見ることは無くなった。

 創作に苦悩は付き物である。それは今でも変わらない。しかしその苦悩を、それもまた楽しみの一部だと感じる事もある。これも、最近になって現れた変化である。

 米国にサム・マルーフという木工家具作家がいた。その著書に、こんな一文があったのを思い出す。すでに70歳近い年齢の時のことである

 「今でも私は、毎朝工房へ行くのが待ちきれない」




ーーー6/25−−− 菊と刀


 本棚の片隅にあった、ルイス・ベネディクトの「菊と刀」を読んだ。家内が若い頃購入した本だそうで、私はこれまで読んだことが無かった。

 太平洋戦争の戦局が、米国の勝利に傾き始めた頃、戦後の占領政策を想定して、日本を学術的に研究する試みがなされた。その中心的な存在が、著名な文化人類学者のルイス・ベネディクトであった。菊と刀は、その日本研究のレポートである。

 菊と刀と言えば、「欧米は罪の文化、日本は恥の文化」で知られているが(その程度のことは私も知っていた)、それに留まらず、多岐にわたる内容であった。読み進むにつれて、それは驚きをもって感じられた。日本人である私が知らないような事が、次から次へと展開されていた。しかも、その一つ一つが、「なるほど」と納得される事柄であった。これまで60年の人生において、一度も学校で教わったことが無い、一度も親兄弟から聞いたことが無い、一度も友人仲間の議論に上ったことが無いような話である。それが、自分が生まれ育った国に関わる事なのだから、これは驚きの感覚を生じさせても不思議は無い。

 戦勝国が敗戦国を見下したような表現は無い。欧米文化が優れ、日本文化が劣っていると言うような記述も無い。ただ、淡々と日本文化の特徴を指摘し、その分析に終始する。時として米国の文化と比較はするが、そこに正邪好嫌の決め付けは存在しない。だから、日本人にとっても、感情的な抵抗を持たずに読み進めることができる。近年になって、この本が日本文化のユニークな面を、プラスに評価する役割を果たしているとの指摘が、欧米の知識人の間で起こっているとも聞く。

 私の印象としては、翻訳が少し読み難かった。原文に忠実に訳すのは当然なのだろうが、学者先生が書く文章のようで、表現が硬く、すんなりと入ってこない。この分かり難さも、日本文化の一つの形なのだろうか。ともあれ、もっと平明な翻訳が出版されればと思う。そうすれば、中学校や高校において、これは有意義な副読本になるだろう。いや、若い人たちに、是非とも読んでもらいたい本である。日本の歴史に関しても、どの歴史の教科書にも見たことが無いような、核心を突いた記述がある。

 息子と電話をする機会があったので、菊と刀を読んだ感想を述べた。すると息子は、これほど著名な本を、私が今まで読んでいなかった事に驚いたと言った。しかし息子は、著者のルイス・ベネディクトが女性だったことは知らなかった。




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